偶然の経験によって形成される自分もあるだろう。特に子供の頃の経験は、周囲の環境によってもたらされた物ばかりだ。しかし人は環境に振り回される受動的な生き物ではない。人は自分にどのような経験を積ませるかを選ぶことができる。経験を通じて、自分のありたい姿と一致させるように、腹の底を育てることができるのだ。
だからこそ、敢えてピンチの場に立ち、心の深いところに行動規範を刷り込む鍛錬をするのである。逃げない自分を作るために、逃げたくなるような場に自分を追い込むのだ。
修行や鍛錬は、体が自然に動くようになることを目指す。単なる自動反応ではない。一点の曇りもなく信じ切れていて、行動に疑いがない状態を目指すのである。技を磨く身体的鍛錬から始まって、心の鍛錬にレベルアップしていくのだ。
格闘技のファイターは、意識がもうろうとしても前に出る。心身一致した状態を鍛錬によって作り上げた姿だ、そこに人は感動する。軍部に睨まれてもユダヤ人のビザを発行し続ける、伝染病の村に入って看護を続ける、そこには、頭で考えた「あるべき姿」と、体から生まれる「日々の行為」との、一致した状態がある。
それは「覚悟」と言ってもいい。覚悟は頭でするものではない。腹の底から決まっている状態である。決まっていると知っていることである。そこには自己矛盾も迷いもなく、持っているエネルギーの全てを注ぎ込んで、常識を越えた大きな役割を果たす自分だけが、いるはずである。
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