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2009年6月9日火曜日

動物脳を信じる

ここ3編ほど、自分勝手を極める話をしてきたが、「誰もが自分のやりたいようにやったら、みんなが自分勝手だったら、世の中めちゃくちゃじゃないか。」という批判もあるかも知れないので、少し説明しておこう。

人の本質は自分勝手だから抑えるために理性がある、という考え方をしていると、理性が事切れた状態では、自己本位な行動しか起こらないという論理展開になる。だがそれは違う。

理性が事切れた時に活躍する動物の脳は、日常の私たちの行動を、より深いレベルで規定しているが、決して闘争的でもなければ、自分勝手でもない。弱肉強食と言われるが、それは自分の胃の大きさの範囲だけに限られている。動物は不要な狩りをしない。不要な闘争もしない。

動物が闘争本能に満ちた自己本位的な存在だというのは、人間を動物より尊い生き物だとする偏った認識にもとづくものである。この認識のほうこそ、初めに言葉ありきといって言葉で作り上げた自分本位な定義づけであろう。

動物には冷蔵庫も銀行もないのだから、貯めておけない。だから余分に食べる性質もない。環境要因の範囲の中で生きていくのが動物である。動物の一種である人間にも、元々備わった性質だ。それなのにやりすぎてしまうのは、動物的な貧欲を理性で押さえているのではなく、理性が貧欲を育てたのである。

動物の脳に良く聞いて、腹一杯になったらやめればいいのである。走りたくなったら走ればいいのである。それ以上よけいなことは、兄弟でじゃれ合うライオンの子供達のように、楽しみとして行う程度でいいのだ。

どうも人間は、あれこれ先のことを考え、悩み、よけいなことして、作りすぎては廃棄し、食べ過ぎてはダイエットして、動物より遙かに効率の悪い生き物である。環境問題とか、エコとか、頭で考えた理屈なんかじゃなくて、腹が減ってないことに気づくことの方が、よっぽど本質である。
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2009年6月2日火曜日

腹の底を育てる

日頃の行動規範を、腹の底から信じられているかが、いざというときには問われる。では腹の底はどのように作られていくのだろうか、腹の底から信じることは、過去の経験によって形成される。経験の結果得た快感や不安こそが、腹の底を作る。ひやっとした瞬間や、ひりひりとした焦燥感や、胃が重くなったり胸が苦しくなったりする時に、身体は腹の底を形成してゆくのだ。

偶然の経験によって形成される自分もあるだろう。特に子供の頃の経験は、周囲の環境によってもたらされた物ばかりだ。しかし人は環境に振り回される受動的な生き物ではない。人は自分にどのような経験を積ませるかを選ぶことができる。経験を通じて、自分のありたい姿と一致させるように、腹の底を育てることができるのだ。

だからこそ、敢えてピンチの場に立ち、心の深いところに行動規範を刷り込む鍛錬をするのである。逃げない自分を作るために、逃げたくなるような場に自分を追い込むのだ。

修行や鍛錬は、体が自然に動くようになることを目指す。単なる自動反応ではない。一点の曇りもなく信じ切れていて、行動に疑いがない状態を目指すのである。技を磨く身体的鍛錬から始まって、心の鍛錬にレベルアップしていくのだ。

格闘技のファイターは、意識がもうろうとしても前に出る。心身一致した状態を鍛錬によって作り上げた姿だ、そこに人は感動する。軍部に睨まれてもユダヤ人のビザを発行し続ける、伝染病の村に入って看護を続ける、そこには、頭で考えた「あるべき姿」と、体から生まれる「日々の行為」との、一致した状態がある。

それは「覚悟」と言ってもいい。覚悟は頭でするものではない。腹の底から決まっている状態である。決まっていると知っていることである。そこには自己矛盾も迷いもなく、持っているエネルギーの全てを注ぎ込んで、常識を越えた大きな役割を果たす自分だけが、いるはずである。


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2009年5月26日火曜日

自分の価値基準で動く

他人を基準に置くと、他人に左右される。あちこちに配慮しているうちに時間を失い、チャンスを逃しすことになる。その失態を人は批判の根拠にする。「ほら、やっぱりね」というわけだ。他人を優先したつもりが、わざわざ人の批判を招き入れることになる。人の判断基準を採用していると、ろくなことにはならない。決定的な場面では、腹の底から信じていることしか、できないものだからだ。

ヒマラヤの高所に行くと、とってつけた社会性は引き剥がされて、本性がむき出しになる。酸素が希薄で頭がぼーっとした状態では、大脳に蓄積したよき社会人としての規範は、制御能力が弱くなってしまう。生き残るためには、動物的な脳に頼るらざるを得ない。もう限界、という時には、身体感覚に刷り込まれた行動しか、できないのだ。

日頃他人に良いことを言っていても、いざというときに行動が変わってしまったとしたら、もともと無理をして他人に合わせている証拠だ。無理して善人しているから、本性が悪であるように見える。まるで正体を隠して騙していたように見えて、信用を失ってしまう。

信用の元は一貫性である。良いときも悪いときも、変わらぬ態度を貫きたいのなら、自分が心の底で持っている価値基準を深く探り、知っておくことだ。判断基準は、あくまでも自分。人に合わせたところで、自分が心底信じていることでなければ、結局は裏切ることになる。だったらはじめから、心底やりたいことを言い張っている方が、よほど人のためである。

2009年5月19日火曜日

自分勝手でいい

山に登るのは、もともと自分勝手な行為である。それでいい。何かを成し遂げるためにはわがままでなくてはならないからだ。

誰が反対しようと、問題が起きようと、それは道の途中で起きる出来事であり、クリヤーされていくはずの課題である。

遭難するのではないかと反対していた人も、結果が出れば納得する。利害が対立する人なら、利を分かち合えば味方になりうる。

道は長いのである。短期的に人に迷惑がかかるようでも、恩返しできるときは必ず来る。

借りは作ってもいい。あくまでも自分の中の価値基準にあっているかどうかを判断の根拠にするのだ。

価値基準がはっきりしていれば、迷わない。言うこととやることが一致する。いつも自分の基準との照らし合わせを行っていれば、行動にぶれがなくなり、即断即決。生産効率は高まり、ミスも格段に少なくなる。

2009年5月12日火曜日

一人でもやる

チームがたとえ一人になっても登る。「一人で登る」のとは違う。一人でやるのは、チームが必要ない場合。周囲の協力がいっさい必要ないときのこと。

もし周りに関係している人がいるなら、その人達から期待した協力が得られなかったり、メンバーが動いてくれなかったとしても、それはいっさいやめる理由にはならない。登山計画を中止してしまうのは、周囲のせいではなく、自分の気持ちがそこまでだっただけのことだ。

本気なのかどうか。そこを人は見ている。なんとしてもやり遂げる、そこに絶対の決意を持っているあなたを、人は信じる。他人次第でやるかどうか決めると、決定権は他人にわたる。決定権を譲られた人は責任が重くなり、負荷が高くなる。そのリスクを負って「私が決めます」といった人に、リーダーの地位は動いていく。

あなたにどうしてもやりたいことがあるなら、リーダーの地位も決定権も渡してはならない。渡せば、それはあなたがやりたいことからずれていっても仕方がない。あなたが自分の夢を放棄したわけだから。

そんな事態に陥りたくないのなら、誰が反対しようと、たとえメンバーが全員去ったとしても、一人で最後まで成し遂げると決めることだ。一人でもやると決めると、人はついてくる。「行く」と決めてくれる人(リーダー)を、人は待っているのだ。必ずやると宣言すれば、あなたは待ち望まれた存在になる。

2009年4月28日火曜日

登りたい山を夢見る

登山は、まずどこに登りたいかを夢見ることからはじまる。

1985年にはじめてカラコルムに遠征に出かけた時は、1枚の写真がきっかけになった。今は廃刊になっているクライミングジャーナルという雑誌に掲載された、内田良平氏の撮影によるバルトロ寺院群だった。1000m以上の切り立った壁を、斜め横から見た写真だ。巨大なピラミッドがいくつも氷河上に空に立ち上がっていて、それまで見たことのない形をしていた。私だけだったら、他人事のように眺めて、その後話題に出たとしても、「ああ、知ってる、見たよ」で終わっていたかもしれない。

だが同期のAにとってはそうではなかった。彼は、そこに登っている自分を想像し、日本の岩と違って堅い花崗岩だから、ホールドもしっかりしていて、どんなに快適だろう、と熱く語ったのだ。カラコルムどころか、日本からまだ一歩も出ていないくせに、今までの国内での山登りの経験から、体の感覚にまで意識を広げて、まだ見ぬ山を味わっていたのだ。

私は別の想像をしていた。クライミングそのものよりも、人の見たことのない地平線の彼方へのあこがれである。その壁を登るシーンではなく、氷河を見下ろして世界を概観する自分の姿、そしてプロジェクトを成立させてマネージメント能力の高さを、メンバーや支援者から認められる姿だった。そこで僕らは、Aが登攀隊長として壁から山頂に関して、私は隊長として全体を統括して、ベースキャンプより下の手配や段取りに関して、役割分担をすることにした。

バルトロ氷河の入り口に付き、遠く目指す岩峰が見えた時、これで8割成功、と思った。Aはきっと、いよいよ始まりだと思ったはずである。そして標高5700mのキャンプから長大なバルトロ氷河を見下ろして、頂上まではまだ遠いにもかかわらず、私は満足したのだった。

人は夢に向かって進む。どんな夢を見るか、同じプロジェクトに関わっていても様々である。公のゴールと、個人のゴールは必ずしも一致してるわけではない。それでも、夢を自覚し、はっきりと持ち続けることが重要だ。でなければ、プロジェクトは、個人にとってやりがいのない義務となり、やらされ感に満ちた行動は、失敗をはらむからである。